のばらの読書録

日々読んだ本の記録をしていきます

『82年生まれ、キム・ジヨン』チョ・ナムジュ(2018年)③完

 ちょっと間が空いてしまいましたが、ようやく『82年生まれ、キム・ジヨン』を読み終わりました。

 今回読んだのはキム・ジヨン氏の大学時代から就職、結婚、退職と出産までの部分です。今私が20代半ばということもあり、一番共感もあってしんどいパートでした。

 大学の先輩の「ガム」発言とか、普段の態度が穏やかで優しいからそれなりに信頼してた男性が何気なく無神経な差別発言をして、滅茶苦茶傷ついたりがっかりしたりすることは身に覚えがあるので刺さりました。そういうことが積み重なると不信になるんですよね。

 ジヨン氏が就職した会社での話、出てくる女性の上司がかっこいいんですが、女性はこの人みたいに育児は実家を頼れておそらくパートナーも協力的という特殊な環境じゃないと職場で活躍できないというのが男女格差の表出だなとおもいます。ジヨン氏自身も後に悩んでいましたが、育休とか産休とか、権利としてある制度を使うかどうかにも周囲からのいらんやっかみや評価のせいで悩まされるのは本当に嫌ですね。

 私の職場でも管理職クラスの女性はほとんどいなくて、でもその人が信頼できるフェミニストだったからここで頑張ってみようと思えたし、後に続いて職場を変えていきたいと思えたという経験があります。そういう人がいるということ自体が後輩を勇気づけるのだということも大切な事実です。

 ジヨン氏は結婚して子供を産みますが、その夫が現在の「比較的理解ある男性」のリアルという感じに描かれていてすごい。ガチガチに保守的なわけじゃないし思いやりがないわけでもないんだけれど、差別に対して一緒に闘ってくれるわけではない、まだ根本的に越えられない壁があるこの感じ。「手伝う」発言がダメなのは最近日本でも広まってきつつある(……といいな)ような気もしますが、子どもを持つことや女性が仕事を辞めることに対する意識の差が大きすぎるんですよね。

 私も常々感じているんですけど、妊娠・出産で仕事を辞めることが女性にとってどういうことなのか、ジヨン氏の夫みたいに「僕が養うから君は無理に働かなくていいよ」と言う男性は真剣に考えたことあるんでしょうか。まあ給与水準が低すぎる今の日本ではそんなこと言う人も稀でしょうけど。

 「働かなくていいなら働きたくない」「専業主婦がうらやましい」「養われたい」っていう人いますし、私の中にもそういう気持ちが生じることが全くないわけではないけれど、職を持たずに他人に養われることってそんなにいいものでもないと思いますよ。労働環境が酷いところで酷使されて鬱になったり過労死したりするのは大きな社会問題なのでそれはそれで改善しなければいけませんし、そういう場合の選択として仕事を辞めるのが正解な時ももちろんあります。でも、この本でも克明に描かれている通り、経済的自立を失うことは自尊心を傷つけるし、生きがいや人生の指針、目標を失ったり、歩んできた道が断絶したりすることでもあります。Ⅿ字カーブって日本でもよく言われてきましたけど、一度辞めて数年空けたら元居た場所に戻れるわけじゃないし、パートやアルバイト、派遣とか不安定で低賃金な仕事や能力に見合わない、向いていない仕事を探すしかなくなる人も多いわけです。そういうことを男性にも真剣に想像して考えてほしいんですよね。

 この本が出てから3年経って、世の中には変わってきたところもありますが、まだまだなところもあって、この本は日本でもまだまだ読まれ続けるべき本だと感じました。

 

 次は並行して読んでいる『狐付きと狐落とし』中村禎里(2020年)を取り上げます。日本史の知識がなさすぎるので勉強しながら読んでいます。

『82年生まれ、キム・ジヨン』チョ・ナムジュ(2018年)②

 引き続き『82年生まれ、キム・ジヨン』。読み終わるつもりだったんですが、読んでてやっぱり一気に読む本じゃないなという感じがしたので今回も途中までです。

 今回読んだのはジヨン氏が中学、高校時代の話。

 女子にだけ服装規定が厳しかったという話があって、私が通っていた学校にも女子にだけ適用される謎の校則あったなあと思いだしました。ブレザーの中にニットのカーディガン着るのは良いけどベストはダメとか、靴もローファーが基本とかだった気がする。

 タイツは禁止されてなかったので冬場も何とかしのげましたが、学校によっては靴下まで指定があるとこもあるし、冬場のスカート強制は虐待では?と思いますね。

 あと、露出狂とかストーカーとか痴漢に遭った女性を自衛が足りないと責める風潮は本当にクソです。作中では反撃した女子生徒たちもはしたないというニュアンスで責められていましたが、何しても責められるんですね。

 連続的に描かれるそんな酷いエピソードの中で希望を感じるのは、抗議する女子生徒や弟より母を尊重しようとする姉、ストーカーから助けてくれ、「あなたは悪くない」と言ってくれる見知らぬ女性が描かれているところです。この本の帯で松田青子さんが「女性たちの絶望が詰まったこの本は、未来に向かうための希望の書」と書いていますが、まさに。と思います。

 この章では90年代の韓国の女性を取り巻く空気感が描かれているのですが、私の育った90~2000年代の日本の空気感と共通する部分があるような気がしました。私もいろいろな理不尽は残る状況でも、なんだかんだ男女は平等だと言われて共学で育ち、学校では男子と机を並べて同じ授業・試験を受けました。私の母も「花嫁修業をしろ」「女の子はそんなに勉強しなくていい」とは一言も言わなかったけれど、「女の子なのに部屋/字が汚いなんて」「女の子は専門的な資格を取ったりして手に職をつけた方がいい」とは言いました。自分の経験と重なったこともあり、そういう描写がすごくリアルというか、繊細に描かれている部分だなと思いました。

 次は読み終われるかな~と思います。

『82年生まれ、キム・ジヨン』チョ・ナムジュ(2018年)①

 13日の地震東日本大震災を思い出して怖かったです。大きな被害の出るような余震がありませんように。

 今回は『82年生まれ、キム・ジヨン』を読み始めました。本自体は2年ほど前に買っていたのですが、何となく読めずに本棚にしまっていました。良い本なのはわかっていたのですが、小説読むのがしんどい時期だったので。

 先週から読み始めたはいいものの、一ページ読むごとにいろいろな辛さが沸き上がってきて、一気に読むということがなかなかできません。文体は淡々としていて読みやすいのですが、出てくる話がことごとく身につまされるものばかりで、隣国の話ですが日本と同じだなあと思わずにいられません。そういうわけで、まだジヨン氏が中学校に通い始めるあたりまでしか読めていないのです。ジヨン氏の母にかけられた「男児を2人産め」というプレッシャーとか本当にひどい話だけど、「男の子がいないと”家”が途絶える」とか「女の子がいるから老後の介護は安心」とか、家父長制やら古い性別役割分業やらは日本でもまだまだなくなってないんですよね。未だに夫婦別姓も認められないし。私は95年日本生まれで、学校は男女別名簿ではありませんでしたが、中学校ではいつも級長は男子、副級長は女子だったなあと思いだしました。今はどうなってるんでしょう。今の子どもたちが、女子がリーダーになることに何の違和感も疑問も抱かない世代になっているといいなあ。

 日本でも韓国でも、女性差別をめぐる状況は100年、数十年、ここ十年だけでも大きく変わってきているんだと思います。私の母親は1965年生まれで、80年代、90年代のフェミニズムのころ「若い女」だった世代。キム・ジヨン氏は私と母の間の世代で、作中に登場するジヨン氏の母は私の母と祖母の間の世代だと思います。国が違うのでフェミニズムの流れも違うとは思いますが、越境した動きもあったんだろうなと思い、この本を読んでいると、そういった受け継がれる歩みにも思いを馳せます。闘いには反動が付き物ですが、この大きな流れは止められません。

 次回は最後まで読む予定です。

『JR上野駅公園口』柳美里(2014年)②完

 なんとなく毎週の土日更新を目指してたんですが月曜になってしまいました。まあそういうこともありますよね。

 今回は柳美里『JR上野駅公園口』を読み終わりました。

 前半からちょこちょこ仄めかされてはいたのですが、この小説は自殺した上野のホームレスの男性の意識が上野をさまよいながら自分の生涯を振り返る物語なんですね。ということが読み進めるうちにはっきりとわかります。

 主人公の意識は幽霊のようなもので、自分の経験を振り返りながら、現在上野にいるホームレスたちの様子や公園を訪れる家のある人たちの様子もリアルに淡々と描写します。読者の私はこの霊と一緒に見知らぬ人々の他愛もない会話を立ち聞きし、その人たちの生活にも思いを馳せます。そういう経験もさせられる小説です。

 一方で、この主人公自身の人生を語る部分では、人生に避けられない死別(主人公は息子、両親、妻との死別を経験する)の悲しみに向き合うことを考えさせられます。私はまだ若くそれなりに幸運で、近しい人の死というと祖父母、曾祖母の死しか経験したことがありませんが、苦労して出稼ぎで稼いで21まで育てた息子の急死に深く傷ついた主人公の心情は想像するだに苦しくなります。

 また、出稼ぎをやめて福島の故郷に戻り両親と妻を見送った主人公が、孫娘と暮らしていた家から出て再び上野に戻る場面はとても胸に刺さるものがありました。また自分の話をすると、私もちょうど20前後のころ祖母と二人で暮らしていたこともあり、こんなことがあったらお孫さんどんなに心配し責任を感じただろうと孫の方に感情移入してしまうという。でも、「孫を自分や家に縛ってはいけない」と荷物をまとめて家を出たこの男性の気持ちも想像するとわかるような気がするし、たぶん自分も年老いて孫の世話になって暮らしていたらそういう気持ちにもなるだろうなとも思ってつらくなります。今結構問題になってますよね、孫による介護。路上に出る以外の選択肢がこの人にあればと思ってしまうけれど、実際こういう事情でホームレスになる人もいるのだろうかと思いました。

 作品の中盤、ホームレスについて「昔は家族が在った。家も在った。初めから段ボールやブルーシートの掘っ建て小屋で暮らしていた者なんていないし、成りたくてホームレスに成った者なんていない」という記述があります。そのうちの一人だった主人公の人生を追うことで、一人一人違った人生の成り行きがあって、そこに辿り着いているのだということを、改めて思う作品でした。

 と、考えながら読んだのですが、この作品にはもう一つ通底したテーマがあり、それは「天皇」です。原武史氏による文庫版巻末の解説で触れられていて、こちらもかなり興味深い内容でした。

 作品の最後には3.11で津波に襲われた主人公の故郷が描かれています。ホームレス、天皇制、震災と原発事故、そして東京オリンピックを繋げるこの作品は、刊行から7年となりますが、確かに今こそ読むべきタイムリーな一冊だと感じました。

 

 次は何を読むかまだ決めていませんが、最近買ったのは三浦しをん『マナーはいらない 小説の書きかた講座』です。TBSラジオ・アシタノカレッジの三浦さんゲスト回が面白かったので。でも積み本は他にもたくさんあるので他のになるかも。

『JR上野駅公園口』柳美里(2014年)①

 先週の更新でも予告しましたが、今週は柳美里『JR上野駅公園口』を読んでいました。2014年に刊行された本ですが、去年全米図書館賞を取ったということで話題になっていて、私もそこで知りました。

 今週は(も?)読書の時間があまりとれず、今は前半ぐらいを読み終わったところです。

 主人公は1933年生まれ、福島出身の、高度経済成長期に上野に出稼ぎにやってきた男で、その生涯を振り返る物語になっています。

 私は90年代半ばに茨城で生まれ、常磐線にも上野駅にも自分なりの思い出や思い入れがありますが、この小説での常磐線上野駅についての描写を読むと、世代や環境が違う人にとってはまた全然違った意味を持つ場所であり路線なんだなという当たり前のことに思い当たります。東北からたくさんの人が常磐線で上野に集団就職や出稼ぎにやってきた時代のことは、知識としては聞いたことがありましたが、その人たちの経験や人生に思いが至ったことはこれまでなく、貴重な読書体験だなと思って読んでいます。

 まだ途中なので短いですが今日はここまでで。来週には読み終われると思います。

『羅生門・鼻』芥川龍之介(1968年)③完

 引き続き『羅生門・鼻』ですが、ようやく読み終わりました。今週読んだのは「邪宗門」「好色」「俊寛」です。

 全体を通して古典や史実が元ネタの話が多く、知ってたらもっとわかって面白いんだろうなーと思いながら読みました。知らなくても結構面白かったです。

 今回は各話感想はサクッと。

邪宗門

 これ、本に収録されてる中で一番長い話で、しかも未完なんです。それも登場人物がどういう人かわかってきて、ストーリー的に面白くなって(宗教的な能力者バトルみたいな)一番盛り上がりつつあるところで突然終わっている。ここで終わる!?ってなりました。続き気になっちゃうなあ。

 「地獄変」の続編らしいのですが、恥ずかしながら読んだことないのでそっちも読んでみたいです。

 

「好色」

 一番面白かったのはこの話かもしれない。語り手の男の性格がやばくて面白いんですが、この男が頑張って落とそうとする侍従が滅茶苦茶強くて笑いました。文体もコミカルな感じで読みやすかったですね。一言で言うなら、調子こいてるプレイボーイが格好悪く敗北する話です。

 この話、ホモソーシャルの嫌なとこがめっちゃ克明に描かれてるなと思ったんですが、芥川もそう思って書いてたのかもなあと思いました。女は獲物じゃないのだよ。平中と範実が酷くて義輔だけ比較的実直に描かれてましたね。しかし平中みたいな男って実際にいるものなんですか?出会いたくないなあ。

 

俊寛

 島流しに遭ったお坊さんの話なんですが、この人のキャラがなかなかよかったですね。ポジティブで視野が広くて面白いおじさんが目に浮かぶ感じでした。「泣くより笑え」はシンプルでいいなと思いました。そしてこの人が語る他の人もなかなかキャラが濃くて面白かったです。

 面白いんですけど、話としては全体的にしんみりした雰囲気もあって、本の最後にこういう話が来るのは良いなと思いました。

 

 という感じで芥川龍之介羅生門・鼻』一先ず読了です。いろんな話が入ってて面白い短編集だったな。もうちょっと教養がついたらまた読みたいですね。

 次は多分、全米図書館賞を受賞した柳美里『JR上野駅公園口』を読んでいくと思います。

『羅生門・鼻』芥川龍之介(1968年)②

 引き続き芥川龍之介の『羅生門・鼻』です。今回は「運」と「袈裟と盛遠」を読みました。

 自分でもびっくりするほど進みが遅くてあれですが、次週でなんとか読み終わりたいな……と思っています。文量でいうと先週分と今週分合わせたぐらいあるわけですが。

 

「運」

 これはわりとさくっと読めました。一言でいうと、「途中恐ろしい目に合うけど最終的には富を手にする」という”幸運”を望みますか?っていう話なんだろうと解釈しました。主人公の男は望むらしいですが、私は御免ですね。

 この話でいう恐ろしい目というのは強姦も含んでいるわけですが、その見返りのように富を得るというのが観音様のご利益というのはなんとも後味のよろしくない話です。

 

袈裟と盛遠

 この本では5話目に収録された短編ですが、初めて一人称小説っぽいものが出てきました。と言っても、盛遠サイド、袈裟サイドの独り言という形で長大な鍵カッコに括られているので厳密にいうと違うのかもしれませんが。

 で、この話で私はとても難しい気持ちになって、今週はここまでしか読めませんでした。

 解説とかWikipediaとかによると、この話の元ネタは『源平盛衰記』にある創作と考えられているエピソードらしく、簡単に書くと、人妻である袈裟に盛遠が横恋慕してその夫を殺そうとしたが、夫を守ろうと身代わりになった袈裟を誤って殺してしまったという話です。芥川がこの粗筋から袈裟と盛遠の内心を独自解釈して小説にしたのがこの短編なのかな。多分。

 この小説では、盛遠と袈裟の間に恋愛関係があったのかどうか、どんな感情があったのかということを掘り下げています。

 一通り読んだ印象では、盛遠が袈裟に向けている感情はどうも、肉欲と蔑視が主で、妙な嗜虐心とか執着もあるようですが、そこに愛情と呼べるようなものがあるようには私には思えませんでした。恋となるとどうなのかわかりませんが。

 一方の袈裟は、そんな盛遠の感情を敏感に察知していて、盛遠のことを(いい人だとかいう意味で)好ましく思ってはいないようです。しかし、「盛遠に性的に魅力的な女として見られたい」という意識が別にあるようで、これはある種の恋といえるのかもしれません。実際独白の最後に袈裟は盛遠を「恋人」と呼んでいるし。しかしこういうこと書いてるとお前の言う恋・愛って何なんだって話になるわけで、面倒だな~。

 そんな二人は作中で肉体関係を持つのですが、ここにどの程度の同意があるのかが読んでていまいちわからないところで、私としてはもやもやします。盛遠は「辱めた」、袈裟は「体を汚された」と表現しているのを見ると、ある程度一方的なものだったのだろうと推察されますが、袈裟は自分を汚したその男を愛していたという。別にそこに矛盾はないと言えばないのですけどね。

 こういう風に書かれると、不倫関係を結んだ責任を袈裟が命を賭して負わなければいけないことにある程度話の中で筋が通るようにも見えなくもないんです。作中では「夫のために死ぬのではなく私のために死のうとする」と袈裟が自分の口惜しさと恨めしさに始末をつけるために自分の意志で死ぬのだという風に書かれていて、それはそれで面白いんですけど。でも私はこの話のそもそもの大筋にも、この語り方にもどうにも嫌なところがあるんです。

 なんで袈裟だけが死ななきゃならんのだ。せめて盛遠も死んだらどうなんだ。とまず思います。元ネタがそうだから仕方ないといえばそうなんですけど。私は元ネタをちゃんと読んでないので迂闊なことは言わない方がいいんですが、Wikipediaによると袈裟御前は孝道と貞節の狭間で死を選んだ貞女とされてきたらしく、そう書かれると彼女の死は禊みたいな意味合いに見えます。でも、袈裟より盛遠の方が悪くないですか?元ネタは知らないけど、芥川のこの小説の解釈にしたって、袈裟より盛遠の方が悪いと思います。袈裟を「辱めた」のも、夫を殺そうって言いだしたのも盛遠だし。まあ袈裟もその場では殺害に同意してるんであれですけど。

 それに、袈裟を貞淑で哀れな被害者、聖女として持ち上げて書いたとしたらそれはそれで悪いと思いますけど、袈裟も盛遠に気があったんだっていう風に書くのもどうなんです?ってちょっと思う。だって袈裟にも責任があるにしたって盛遠にだってそれより大きな責任があるはずなのに、死ぬのは袈裟だけ。女が自分を犯した男を「実は好きだったから」殺さずに、自分だけが罪を背負って殺されてくれるっていう構図に見えてしまって気持ち悪いんですよね。

 まあここまで書いておいてなんですけど、この小説は殺害直前、盛遠と思われる人物が袈裟の元に訪れるところで終わっているので、もしかしたらこの世界線では袈裟は死ななかったかもしれませんね!ちょっとその方向でも考えてみたいと思います。

 

と、いろいろ考える話でした。深い読みには知識も思考も足りてないと思いますが、今日は一先ずここまで。